大好きすぎちゃ、イヤですか?

オタクごと。幸せよ、永遠に。

まがいもん屋で過ごしたひととき

暑いお盆の舞台を堪能しすぎたせいか、まるで夏バテのような身体の気怠さが襲ってきた。まだ初夏だというのに。梅雨がそろそろそこにいるのに。でも、1ヶ月間、すごく素敵な空間で毎公演楽しかったおかげか、なんとか今日も生きていけている。改めて、演劇に生かされてるなぁと痛感している。

 

 

 

This is 大奥千穐楽から20日後。

 

ふぉ〜ゆ〜初主演で立った博品館劇場に、越岡さんが1人主演として0番に立った。

初めて4人で立った場所に今度は1人で主演として同じ場所に立った10周年。まだ2ヶ月ほどしか経ってないのにこんなに素敵なご縁と機会をもらっていいのだろうか。博品館に通うたびに感慨深く向かうだけで胸がいっぱいになった。

 

越岡さん演じる雅人が営む古道具・骨董品屋。

玩具屋でお馴染みの博品館にある劇場でこの物語を繰り広げたのも、わざとなのか…?似合いすぎるのよ…博品館が休業状態なのが少し憎い…

 

そんな余談はさておき。

 

暑い夏のお盆の時期に、この古道具屋こと「まがいもん屋」に河野が訪ねてきたところから物語が繰り広げられる。

 

古民家のセットは現代に置いてきたものを蘇らせるものがたくさん溢れている。

 

セットにある畳や扇風機、物語のキーとなる手紙は勿論のこと、

 

扇風機に当てられながらお昼寝するゆったりとした時間。

インターホンで誰でも気を使わず呼び出せる現代の家と異なり「ごめんください」と気を使いながら家の人を呼ぶ河野。

家で削る頭の痛くなるタイプのかき氷。

都会にはあまり生息されないとされるミンミンゼミ。

友人と一緒に遊びや飲み食いを楽しむ時間。

家庭菜園に触れる河野。

 

などなど懐かしい風情あるものからコロナ禍でできなくなってしまった日常が溢れている。

 

都会の暑さとは違う、心地のいいゆっくりした落ち着いた空気感を堪能できたところ。どんな人でも優しく受け入れる温かい雰囲気が好きだった。田舎に帰ってきた優しさが愛おしい。

また、現代社会ならではの生きづらさから戻してくれるところがとても安心した。

 

 

河野がネットにあれやこれやと晒される話をする玉子たち。

玉子「今じゃなんでも晒されるのよ!」

祥子「そんなことまで載ってんねんや、」

ミチル「しょーもない!」

 

川島に河野のことを楽しそうに探ってきたことを話すところ。

河野「そんな奴は真実なんてどうでもええねん、おもろかったら。」

 

 

SNSが発達した現代だからこその苦悩。

不特定多数に晒されるからこそ一度何か起きたら参ってしまう。情報の一人歩きが進むことが多い現代。

だけど、まがいもん屋の人達は優しくも深く受け止めない。

みんながみんな、いい意味で「気にしない、今のその人を受け止める」ようなところに安心感が私の中で生まれた。実際、たまにどこかSNS疲れしてしまうことがあるから。まさにその時期でもあったから。尚更、どこか穏やかな気持ちになれたのだと思う。

 

 

 

公式のツイートで後から気づいたけど、セミが迷い込む演出は、河野がまがいもん屋に迷い込む比喩でもあるのか…と痺れた。

 

数回観劇を重ねると「まがいもの」「にせもの」に関することの表現が散りばめられてることに気づく。

 

メロン味のかき氷じゃなくイチゴのかき氷を出された孝明さんと河野(御前崎さんに取られてしまうけど…笑)のところ。

「今ね、メロンや〜思って食べてましたらね、メロンでしたわ。所詮そんなもんですわ。」

 

メロンに強制的に拘れる河野に対し

「きゅうりに蜂蜜つけてあげたら?」

「きゅうりに蜂蜜つけたらメロン味になります何様やぁ!」

 

肉まんを買ったつもりで食べたらあんまんだった玉子。

 

前飼っていた犬の生まれ変わりと思って御前崎さんを拾ったミチル。

 

全ては「幸からの手紙を偽物だとわかりつつも信じている雅人」の前振りなのかな…と思った。

 

○○と思っていたら別物だった、○○だと信じたら○○になる。

本物かどうかよりも、その人がその人なりの信念や大切にしたいものを思って信じているのならそれでいい。

 

きっと、孝明さんも祥子ちゃんもミチルもケンも、雅人が「幸は生きてる」と信じて幸のことを想いながら生きてくれてることでそれぞれの想いが救われる部分もあるのかな、と思う。

 

だから、何も雅人に言わずに協力して、みんなが優しく雅人がどんな一歩であれ前に上に進んでいくように見守っている。無理に言わず強制をしない。直接的に言わないけど、ふわっと優しくお互いを支えてる関係が温かい。

 

河野の「ここのもん、全部買う。」

小学生の時と同じように、お互い手を取り合って前に進もうとする情景が浮かぶ。別れはあるけれど、また1人、優しく雅人に寄り添ってくれる。そこもまた、温かく優しくも逞しい支えができたように感じた。

 

そんなお互いを想い支え合ってく温かい雰囲気に、いつの間にか、私まで支えられた気がした。「とにかく頑張ろう」から「まぁ、ゆっくり頑張ってこ」と思えるようになった。

 

まがいもん屋の人たちはそれぞれ人として根本的に否定しない。どんな人であれ、お互いを認めて優しく受け止める穏やかさがあるからこそ生まれる空気感や関係性があるのかな、と毎公演そんな包み込まれる空気感に心地が良かったが、私自身のことで少し考えさせられた。

 

他にも、勝手に自分はこんな「誰かを想い続けれる人間になれるのだろうか」と悲観的に捉えてしまう部分もあった。居ない人を想う人は周りにどんな人が来ようと想い人に勝てないもどかしさと苦しみと切なさを感じた。それくらい、幸を想う雅人の信念が痛いくらいに刺さっていた。

 

 

 

ただ、ミチルにも自分が手紙を持ってきた後悔があるのかなと切なく感じるところがある。

 

いつも見る夢が、飛行機が山にある左の方にしか向かわず、その操縦士がミチルだったこと。ケンが帰るときに雅人に「元気になってよかった。な!ミチル!」と声をかけた時の浮かない顔(パンフの対談で雅人に手紙を送ったのがケンという裏設定含)。

 

自分が手紙を偽って持ってきたせいで、幸が居た頃の雅人じゃなくなってしまった。でも、雅人には元気に生きてて欲しかった。そんなさりげないお兄ちゃんを想う心が、素敵な兄弟愛だけど少し残酷に感じた。

 

だからミチルが放った「おっちゃんはおってな。」がもうこれ以上何も失いたくないような印象を感じた。

 

 

 

雅人の絶望感も少しわかる部分もある。

「俺、小学生の時から何も変わってなかったわ〜。相変わらず身体が弱くてさぁ。情けなかったなぁ。」のところ。

希望通りの就活にいかなかった2年前の私とそっくりであの時を思い出して辛かったなと。

あの時も、どうしても次に進められなくて。そこそこ引きこもったし、過去一自分に落ち込んだ。

物事やきっかけは違うけれど、雅人の「何もやれなかった自分への情けなさ」は観ていていつも心をすこし引っ掻かれた気持ちになった。

 

 

 

 

観劇の回数を重ねていくうちに、アドリブはもちろん、その日のセリフの印象が違く感じれたのもすごく楽しくて面白くて、行く度にどんな芝居を観れるのか楽しみだった。

 

特に雅人が終盤に言う

「ぱちもんに縋ってる人もおるんやから、本物とか、偽物とか、どうでもええやん!…てことか。」

 

博品館では弱々しくも優しく河野に語りかける印象が強かったことが多かった。けど、ニッショーホールでは雅人の信念かのように、強く河野を守るように放つことが多い印象だった。

 

この台詞を聞く度に、越岡さんの芝居がやっぱり好きで、たくさん越岡さんの芝居を観たい、舞台の人として素敵な人だなぁと思った。

そして、舞台は生物。2度と同じものは観られない。不可逆なもの。その空間でしか味わえない舞台の魅力に浸りまくった。

 

 

改めて、越岡さん主演2作品目にしてこんな素敵な温かい舞台を観劇できて嬉しかった。そして何より上演できて本当によかった。越岡さんが「大阪の話なので、中止になった大阪でもう一回やりたい。」「素敵な作品に巡り会えた。」などと、越岡さん自身が作品に対して凄く大切に丁寧に想ってくれてるところが伝わった。これからもッぱち!という作品は自分の中で大切にしたいし、また大阪での機会ができたら行きたい。

 

現代かつコロナ禍で疲れて荒んだ気持ちになりがちだったところにデトックスのような温かく落ち着く作品と、素敵な劇団の方々に出会えたのが本当に嬉しかった。

 

 

まがいもん屋、ありがとうございました。

 

 

2021.6.13

 

f:id:jotyinmu:20210613184614j:image